モルトケの独り言

適当に読んだ本の感想とか旅行記とか

近江国(大津市中心)の史跡紹介(旅行記)

 先月に1泊2日で近畿地方へ旅行したので、その際に訪れた史跡等を紹介していこうと思う。1日目は主に滋賀県の西部と京都市を、2日目は主に奈良県の飛鳥を見物した。今回は1日目の旅行記(というか史跡紹介)を書いていく。

 

1日目

近江大津宮跡〕

 近江大津宮跡はJR湖西線大津京駅から徒歩約10分の場所にある。大津宮は667年に天智天皇が飛鳥から宮を移した場所である。現在もなお、その全貌は明確には判明しておらず、跡地も大津宮であることを示す看板がなければ単なる空き地にしか見えないような所であった。近江大津宮の跡地は私が訪れた場所以外にも幾つかあるのだが、時間の都合上、この1箇所しか訪問できなかったのは残念である。この遺跡のすぐ近くに皇子が丘という地域があったが、その名称はやはり大友皇子にちなむものなのだろうか。

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〔皇子山古墳〕

 皇子山古墳は(私の訪れた)近江大津宮跡から徒歩5分ほどの場所(前述の皇子が丘)にある古墳である。あまり名前の知られていない古墳であり、かくいう私も訪れる史跡をグーグルマップで探していた時に偶然、大津宮跡の近辺に古墳があることを知って訪れることにした次第であるが、ドーム状の天井を持つ横穴式石室から渡来系氏族の古墳であるとされており、学術的な調査が急がれる(べき)史跡である。古墳といえば土による墳丘というイメージであったので、この古墳で墳丘の頂上に石造の構造物を確認できたのが意外であり、大変驚いた。この古墳が築造されたと推定される4世紀後半に渡来系氏族が近江に分布していたことも知らなかったので、今後この辺りも学習していきたい。これも予期していなかった事だが、古墳の頂上から琵琶湖と大津の街並みを眺めることが出来た。行きがけの駄賃というのであろうか。


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宇佐八幡宮

 大津にある宇佐八幡宮源頼義により建立された神宮であり、境内には「金殿井」という井戸がある。これは天智天皇が病に罹った際に、中臣金がその井戸の水を天智に献上したところ回復したことに由来するという。源頼義勧請の神宮で天智天皇の名を目にし、つくづく大津は天智天皇とは切り離せない街なのだなあと実感した。また大津市歴史博物館の展示で、源頼義の三男に当たる新羅三郎義光の墓も同じく近江(の園城寺)にあるというのを見かけたので、河内源氏近江国の関連性をもう少し深く知りたいと思った所存である。


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近江神宮

 近江神宮昭和15年(1940年)に天智天皇を祭神として建立された神宮である。この神宮に関して特筆すべきは、やはり時計館の存在であろう。天智天皇は日本で初めて水時計を使用して時刻を刻んだ(=漏刻)人物である。この水時計があった場所自体は飛鳥の水落遺跡と考えられているが、近江神宮でも漏刻の事績を重視して、和時計や皇族下賜の懐中時計などを展示する時計館が境内に建っている。史跡をめぐる際には大学での勉強のことなど忘れてしまいたいものだが、近江神宮の歴史を写真で辿るコーナーに地鎮祭の写真があり、それを見てつい津地鎮祭訴訟を思い出してしまったのは苦い記憶である。どうでもいいことだが。

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大津市歴史博物館〕

 大津宮跡〜近江神宮までは全て徒歩で10分以内の距離にあったので徒歩で移動した。その後、石山坂本線に乗り、近江市役所前駅で降り、5分ほど歩いて大津市歴史博物館に到着した。石山坂本線の車体には大河ドラマ麒麟がくる」のラッピングが施されており、さらに歴史博物館の展示も近江坂本や明智光秀を扱ったものが多く、古代史を求めて訪れた大津で思いがけず中世・近世史に触れることになった。個人的には「近江八景」や、膳所藩6万石の歴史が興味深かった。近江八景は近江の風光明媚な名所8箇所を、中国の「瀟湘八景」になぞらえたもので、例えば瀟湘八景の「煙寺晩鐘」は「三井晩鐘」(三井寺園城寺)に、「洞庭秋月」は「石山秋月」にといった具合である。

 

〔義仲寺〕

 義仲寺は木曾義仲が討死した粟津の近くに建てられた義仲の墓所である。あまり有名な史跡ではないが、私は東京大学木曽谷研究会というサークルに所属しており、他の木曽研会員にお勧めされたため訪れることにした。義仲寺に眠っているのは木曾義仲だけではない。木曾義仲の愛妾・巴御前の塚や江戸時代の俳人である松尾芭蕉の墓も境内にある。松尾芭蕉の門人である又玄の残した句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」はよく知られるところである。義仲寺の境内を歩くと木曾義仲松尾芭蕉とは特に縁を感じられない「佐渡の赤石」という石の存在に気づく。これは義仲寺があわや廃寺になろうかという時に再建に力を尽くした三浦義一という人物の寄贈であるそうだ。あまり多くの人に知られずひっそりと粟津に建つ義仲寺を見ながら、義仲公や松尾芭蕉に想いを馳せるとともに文化財保護の重要性・難しさを実感した。


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 他にも訪れた史跡はいくつかあるので、折を見て更新していこうと思う。

 

オスマンはどこから来たのか

 

 最近、オスマン帝国史に関する本を何冊か読んだため、まずはオスマン帝国の最序盤についてまとめることで思考の整理を図りたいと思う。それにしても大学の図書館でより専門的な書籍を借りて見分を深めたいと思っていたので、新型コロナウイルスの流行でそれが当分できそうにないのは残念である。

 

1.オスマン帝国の呼称

 現在のトルコ共和国の前身に位置づけられるオスマン帝国であるが、それをもってオスマン帝国トルコ人による帝国であったと結論付けるのはいささか早計である。中華民国が勃興する前の清王朝の皇帝が満洲人であったように、中近世の帝国が近現代的な国家に生まれ変わるときには、政治体制だけではなく民族の位置づけが変化することもある。

 オスマン帝国の支配者層においてトルコ人がマジョリティである期間はそう長くない。例えばスレイマン1世(位:1520~66)の大宰相イブラヒム・パシャはヴェネツィア人居留民の子であるし、自身も大宰相になり女婿カラ・ムスタファ・パシャが第2次ウィーン包囲(1683)を指揮したことでもられるキョプリュリュ・メフメト・パシャはアルバニア出身である。

 

 オスマン帝国がトルコ民族(のみ)の帝国ではないという意識は国名の認識にも顕れている。彼らは自分たちのことをどのように認識していたのか。そもそもかの国には「オスマン帝国」とか「オスマントルコ」など様々な名称が存在するが、どの名称が最も適当であるかという疑問に対する明確な答えはない。

 オスマン帝国」(オスマンル・イムパラトルルウ)の名称は19世紀に西欧から逆輸入されたものであり、オスマン帝国は「帝国」も「トルコ」も自称したことはない。ではオスマン帝国の支配者層は自分たちの国のことを何と呼んでいたのであろうか。鈴木董『オスマン帝国の解体』には次のような記述がある。

彼らは、自らの政治体について人間の集団としてみるとき、これを「デヴレッティ・アリ・オスマンオスマン家の王朝・国家)」、「デヴレッティ・アリイエ・オスマニエ(オスマンの崇高なる王朝・国家)」、さらにしばしば「デヴレッティ・オスマニエ(オスマンの王朝・国家)」、さらには単に「デヴレッティ・アリエ(崇高なる国家)」と呼んだ。

 オスマン帝国には、というよりも近代以前の国家には一つの定まった国号を持つという観念がなかったため、このように多様な名称を持つことは不思議なことではない。やがてオスマン帝国に近代の波が押し寄せると、1876年に制定された通称ミドハト憲法において国名をオスマン国(デヴレッティ・オスマニエ)」と明記した。しかしここでも「帝国」とは名乗らなかったのである。

  オスマン帝国の歴史家は好んで「ターリヒ・アーリーイ・オスマンオスマン朝の歴史)」という題名の書物を著した。「オスマン朝」、すなわち王朝・王家の歴史とみている。オスマン帝国が「帝国」を名乗らなかったとしても、他民族を包摂したイスラム世界帝国であったことは疑いようがないので、「オスマン帝国」「オスマン朝」あたりの呼称が適当なのではないかというのが個人的な所感である。

 

 さて、オスマン帝国の最初期については、2016年版の東京書籍の世界史Bの教科書によると

11世紀後半からアナトリアに進出したトルコ人戦士は、セルジューク朝の分派のもとにまとまってルーム=セルジューク朝をおこした。13世紀後半からこの王朝はモンゴルの攻撃により衰退し、トルコ人戦士はアナトリア各地に侯国を建てていた。

と記されており、そのなかでオスマン帝国が勃興し、バルカンやアナトリアに勢力を広げたとする。この辺りについて詳しく見ていきたい。

 

2.オスマン登場以前のアナトリア

2-1 アナトリアトルコ人 

 現在のアナトリア地域の殆どはトルコ共和国の領土であり、人口の過半を占めるのもトルコ民族であるが、古来からトルコ民族がアナトリアのマジョリティであったわけではない。アナトリアは長い間ビザンツ帝国東ローマ帝国)に支配されていた地域で、ギリシア系やアルメニア系の住民、宗教でいえばキリスト教徒が大勢を占めた。

 11世紀にはいるとトルコ人アナトリアに移住し始める。その移住の波を加速させたのがマラズギルトの戦い(1071)である。この戦いでアルプ・アルスラーン率いるセルジューク朝軍がロマノス4世率いるビザンツ帝国軍に大勝し、アナトリアにはセルジューク朝の分家であるルーム=セルジューク朝が成立する。「ルーム」とはローマを意味する語で、ビザンツ帝国が支配していたアナトリアを指す。

 ルーム=セルジューク朝は東隣のダニシュメンド朝との抗争や十字軍遠征によって悩まされるも、12世紀の後半になると、ミュリオケファロンの戦い(1176)ビザンツ帝国軍に大勝し、1178年にはダニシュメンド朝を滅ぼすなど勢力を回復し、13世紀前半に最盛期を迎えるに至った。

 しかし13世紀の中ごろにモンゴル軍がアナトリアに来襲するとキョセ・ダーの戦い(1243)での敗戦などでルーム=セルジューク朝は大打撃を受け、モンゴルの属国となってしまう。ルーム=セルジューク朝の権威は地に落ち、アナトリアでは小規模の君侯国が乱立する。その君侯国の一つがのちに世界帝国を築き上げることになるオスマン侯国であった。

 

2-2 伝承にみるオスマン集団

 オスマン侯国について同時代の他国の史料に出てくるのは、オスマン帝国の初代とされるオスマンからである。オスマンやその父エルトゥールル以前の歴史については同時代史料を参考にすることが困難で、小山皓一郎によるとルーム=セルジューク朝とイル=ハン朝の史料には、オスマンの名は一度も言及されていない。ビザンツ帝国の史料には多少の記載があるものの、十分とは言えない。

 そのため現代に伝わるオスマン、父エルトゥールル、祖父レイマンに関する事績は後代のオスマン帝国史家による年代記に大幅に由来しており、その内容は史実というよりも伝承と呼ぶ方が適切である。

 

 その伝承には様々な種類があるが、共通しているのはイランに住んでいたスレイマンが自身の率いていた部族とともに西への移動を開始し、その子エルトゥールルの代にアナトリアに定着したという話である。

 伝承の細部は史書によって異なっており、西進した理由としてイランの王からアナトリアでの聖戦(ガザー)を命じられたという説、モンゴル軍にイランを追われたという説などが存在する。さらにアナトリアに到着した後に関しても、キリスト教徒との聖戦で活躍したという話や、逆に平和的に共存していたという話もある。

 

 エルトゥールルがキリスト教徒との戦闘で活躍したか否かについて検証することは難しいので、まずルーム=セルジューク朝アナトリアキリスト教勢力の関係について考える。 

 エルトゥールルがアナトリアに定着する以前の1204年、第4回十字軍によりビザンツ帝国は首都コンスタンティノープルを失陥する。首都から逃れたビザンツ皇族は亡命政権ニケーア帝国トレビゾンド帝国は、コンスタンティノープルを首都に成立したラテン帝国の打倒をはかるようになる。一方、エルトゥールルがアナトリアのソユトに移住した時のルーム=セルジューク朝の君主はカイクバード1世である。カイクバード1世はシリアへの領土拡大を求めるなど南進への志向が強かった。

 両勢力とも別々に戦略目標が存在しており、この時代のビザンツ亡命政権とルーム=セルジューク朝の対立は激しくなかったと考えられる。後代にエルトゥールルが聖戦で活躍したという伝承を作る意義は大いにある。

 

余談

 エルトゥールルの父、すなわちオスマンの祖父の名をスレイマンと記してきたが、史料によってはギュンドゥズとされている。ギュンドゥズはテュルク語系でスレイマンはアラブ・ペルシア系の名前である。どちらが正しいかは断定できない。

 

 オスマン帝国年代記の傾向として、初期のものはセルジューク朝との紐帯を重視することが挙げられる。セルジューク朝オスマン帝国はともにトルコ系オグズ族の系譜であると高らかに主張され、セルジューク朝王家とオスマンの血統には婚姻関係があるとの創作もなされた。ところがオスマン帝国が巨大な世界帝国になる頃には、セルジューク朝のオグズ族以外の起源説を唱える史書や、両王家の関りに触れない史書も記されるようになる。この傾向に関して小笠原弘幸は以下のように記している。

 セルジューク朝オスマン朝史書では実質的にルーム・セルジューク朝ーの権威が及ぶ範囲は、アナトリアに限定的なものであったと見なしうる。セルジューク朝との衰退は、オスマン朝の支配領域がアナトリアに限られている間は、重要なモティーフであり続けたであろう。(中略)。アナトリアのライバルが消滅し、いまや世界帝国となったオスマン朝にとって、セルジューク朝の持つ権威は重要性を失ったのである。

 アナトリアの小さなオスマン侯国が世界のオスマン帝国になる。その過程でテュルク系からアラブ・ペルシア系への転換がはかられる。オスマンの祖父の名が二種類伝わっていることも、オスマン帝国における系統意識の変化を示す一例であるかもしれない。ルーム=セルジューク朝の建国者の名はスレイマン=イブン=クタルミシュであり、アナトリアへの移動を行ったオスマンの祖父をアナトリアでトルコ系国家を建設したスレイマンに比定したのかもしれない。

 

 さて、一通り学んだ内容をまとめたが、新書を読んだ程度の知識なので驚きの薄さである。ただ同じ国家を扱った同じ量の本でも読み比べると、片方にしか記されていないことや、記述が食い違っている部分もあり、徒に難しい本に手を出していくよりも、似たような本を何冊か読むことは重要であると実感できた。

 

参照文献

林佳世子.(2016).『オスマン帝国500年の平和』

小笠原弘幸.(2018).『オスマン帝国

鈴木董.(2018).『オスマン帝国の解体』

小山皓一郎.「オスマン朝の始祖オスマンと「オスマン集団」の性格」

小笠原弘幸.「古典期オスマン朝史書に見えるセルジューク朝との系譜意識」